努力という言葉が嫌い
こんなことを書くとまたお叱りコメントの銃乱射で蜂の巣にされそうだが、本当のことだから仕方がない。
以前、友達はいらないとブログに書いた時は意外に賛同のコメントが多かった。
しかし、さすがに努力もしないで幸せになれると思っている人はあまりいない気がする。
『努力』ってなんだろうと思う。
Google先生はこう訳している。
『目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。』
なんだか疲れそうだ・・・
そしてその『努力』という言葉を使ったお手本の例文がこれ。
『予算の確保に努力する』
ちょ!
もっと他にいい例文があるだろ。
私が努力という言葉が嫌いな理由はうまく説明ができない。
自分が汗をかいて頑張っている姿をあまり人に見せたくないのかもしれない。
白鳥だって水上でスイスイと優雅に泳いでいるから美しい。
頑張って足を動かして水をかいているところは水面下で人には見えない。
その白鳥が必死こいてバタフライのように泳いでいては、泳いでいるのか溺れているのかよくわからない。
美しいどころか滑稽で哀れだ。
もし努力という言葉を使うなら、私は努力は人の見えないところでするものだと思う。
まあでも、私は人の見ていないところでもあんまり頑張るのは好きじゃない。
結果的に頑張ったなという経験はいくらでもあるが・・・
ある医者が言っていた。
頑張って成長しなくても歳を重ねれば誰だって成長すると。
私もその通りだと思う。
子供が大人になるのにも何か特別な努力が必要だったわけでもない。
自動的に歳をとって自動的に大人になっただけなのだ。
だから若い頃からそんなに無理する必要もなく、ただ生きていれば否応なく心も体も成長して、人生とはなんぞやという疑問も解け満足して死ねるはず。
努力という言葉の解釈にもある『目的のために・・・』というのであれば、好きなことって努力などということを考えなくても自ずと頑張るよね。
要はその好きなことを見つけることが大事なんだと思う。
私は見つけられなかったな〜。
せいぜい好きなことと言えば酒を飲むことくらい?
だから酒を飲むことは努力などしなくてもいくらでもジャブジャブ飲める。
若い頃はなかなか実感しずらかったあの『幸せ』ってやつも、いつか歳をとるとその幸せの実感が高波のように押し寄せてくる。
ただ歳をとるだけでだ。
不思議に思われるかもしれないが、社会の責任という重たい荷物を下ろし自由気ままに生きる老後。
そんな人生の放課後のような時間を幸せじゃなくてなんと呼べばいい?
実に簡単なことだ。
ただ歳をとればいいのだから・・・
今や貧困国となってしまった日本で
30年前よりも賃金が下がっている日本で
広がる一方の格差社会で
若者が目標を持って生きることは難しいのかもしれない。
しかしだからと言って早々に死にたいなどと言わずに生きてみてほしい。
幸せは自動的にやってくるのだから。
とにかくそこまで生きてみてほしい。
結局人に大事なことはただ生きてみることなんだよ。
相田みつをか!
最後に・・・
最近ちょっとお出かけすることが多くなった。
これが日常だったんだよな・・・
よく2年近く家に閉じこもっていたなと我ながら感心する。
今思えば、やっぱりコロナ禍がなければこのブログは書いてない。
もともと外飲みが大好き、外食大好きな親父だったのだ。
もちろんコロナ前も料理はしていたがさすがにこんなに毎日はやってない。
じっと家に閉じこもって作った創作ラーメンは120杯以上!
どこにも出かけず運動不足は自宅でスクワットをして頑張った。
もしかしたらこれを努力と言うのだろうか?
ブログによく登場するタグ