今から10年前、誰かが側にいてくれることに心から感謝した。

その他
スポンサーリンク

東日本大震災から10年

今年でもう10年も経つのか。

あの衝撃の日。

日本人の記憶に深く刻み込まれたあの東日本大震災の日だ。

 

10年が早いとか遅いとか、過ぎた時間のことなどどうでもいい。

ただ決して忘れてはならないのは、あの震災は過去に経験のない未曾有の災害であったということだ。

被災地の復興はまだ道半ば。

しかしその後も日本は次々と災害に見舞われ、世界でもっとも危険な災害多発国というレッテルを貼られることになった。

 

災害のたびに誰もが思う。

この国には神様はいないのかと。

なぜ神は沈黙したままなのか・・・

 

10年前の3月11日午後2時。

私は当時在籍していたオーガニック食品の会社で、あるプロジェクトを任されていた。

ブランドコミュニケーションの一環として、私自身が役員プレゼンを行ってスタートしたプロジェクトだった。

ショーケースを搭載した軽ワゴン社に、会社のブランドロゴをラッピングして可愛い移動販売車を作りあげた。

 

その可愛い軽ワゴン社で、住宅地で有機野菜やオーガニック食品の販売をするというキャンペーンである。

このプロジェクトのために採用した若いアルバイトと2人で、グリーンのエプロン姿で有機野菜を売り歩く。

エプロンが似合わないおっさんがにっこり微笑むと、小さな子供がみんな泣き出す。

 

こんな素敵な笑顔を見てなぜ泣く?

子供は若いバイト君にまかせて、私はマダムの方を担当することにした。

 

有機野菜はよく売れた。

あの東日本大震災が起こるまでは、まだ世の中の奥様たちは野菜に使用される農薬をたいへん気にしていたのだ。

しかしあの震災からその意識は一変した。

 

震災の影響で損壊した福島第一原発の事故により、世の中は農薬よりもセシウムの方に敏感になった。

当時の配送センターには放射線量を測定する機械が備え付けられ、すべての食品の放射線量が検査されていた。

 

震災が起きたあの日も、私は川崎市の宮前平駅の前でバイト君と野菜の販売を行っていた。

軽ワゴン車のスピーカーから音楽が流れると、通行人の主婦のみなさんがこぞって買い物に来てくれる。

オーガニック食品ではそこそこ有名な会社だったので、移動販売は主婦のみなさんにはたいへん好評だった。

 

そしてあの地震が起きたのだ。

午後2時を過ぎたときに、突然地面が揺れだし軽ワゴン車もグラグラと左右に大きく揺れ動いた。

マンションの屋上からガラガラと大きな音がする。

貯水タンクか何かが転がるような異常な音だった。

 

立っていられないほどの強烈な揺れ。

周辺を歩いていた人たちはみなどこかへ身を隠し、私は揺れが収まるのをジッと待ってそれからバイト君を家まで送っていった。

余震が続く中、私も自宅へと帰り嫁と2匹のワンコの無事を確認した。

どうやら家族は全員無事だった。

 

2匹のワンコは、その後も続く余震に怯えきっていた。

私は軽ワゴン車に積んだままの野菜や食材を、このまま置いておいてもしょうがないと思い、ご近所に配って回った。

みなさん買い物にも行けない状態だったのでたいへん喜んでくれた。

 

停電でテレビも見れない。

情報がはいらないなか、なんとかスマホのニュースで地震の情報を知ることができた。

その夜はろうそくを灯し、嫁と2匹のワンコと体を寄せ合って縮こまるようにして過ごした。

非力な私が災害で救えたのは家族だけだった。

 

まだかろうじて冷気が残る冷蔵庫からビールを取り出し嫁と2人で飲んだ。

夜が明けるまでどこで何が起きたのかさっぱりわからない状況だったので、私と嫁はただ酒を飲むしかなかった。

 

不謹慎と言われるかもしれないが、ろうそくを灯し適当なつまみで飲む酒は美味しかった。

こんな経験はしたことがない。

心細いながらも嫁と2人でいれば、何があっても生きていけると思った。

 

今が何時なのかもわからない闇の中で、あの災害の夜に2人で長い時間話したことを今でも鮮明に思い出す。

 

あの日、嫁はまだ生きていた。

 

スポンサーリンク

老後のおひとりさまごはん

昨日の朝食は生姜スープ。

新生姜をたっぷり入れた野菜スープだ。

寒い朝に体が温まる。

 

 

ランチは冷蔵庫にあるもので済ませた。

しかしこういう食事が私にはごちそうだ。

ヘルシーで体にいい。

 

 

夜もなかなかヘルシー!

マグロユッケと豆腐サラダ、マカロニサラダ。

これでメタボってどゆこと?

 

日本中の人が同じだったと思うが、震災から一夜明けて見たニュースの映像は衝撃だった。

こんなことが日本で起こったなんて・・・

まるで映画のワンシーンかと思うような光景だった。

 

多くの尊い命が奪われた東日本大震災は、その後の日本人の心に絆という言葉を深く刻んだ。

そして明日が来ることは当たり前ではないということも知った。

 

いつでも会えると思っていた人は、いつのまにか会えない人になってしまうこと。

今見ている日常の景色は、明日も必ず見れるという保証はないこと。

 

そして神様は10年経っても沈黙しているということ。

 

タイトルとURLをコピーしました