楽しく生きることしか頭にない
最近やたら『終活』という本のタイトルや記事を目にするが、自分が死ぬために何をそんなに準備したがるのかよくわからない。
そもそも『終活』という言葉は日本で生まれた言葉らしいから、日本人が考えそうなことだと思う。
いつ死ぬかわからないしどうやって死ぬのかもわからないものに早々と準備をするって必要なのだろうか?
『終活』関連でよく検索されているキーワードを見ると唖然としてしまう。
年代別で見ると
『終活 40代』よりも『終活 30代』の方が検索ボリュームが大きいのだ。
さらに『終活 30代』よりも『終活 20代』の方が検索されている数が多いという驚きの結果。
そして50代や60代は実はない。
50代や60代は生きる方に必死なのかも。
検索数というのは正直で世の中の本当を教えてくれる。
年代別では20代が一番『終活』について検索しているということを、みなさんはどう思うだろうか。
『終活』とは誰が考えた言葉なのかは知らないが、なぜ死ぬ準備を急ぐのか私にはさっぱりわからない。
『死ぬ』ことすら楽しみだと思って生きているので、死は生きている自分が経験するひとつのイベントなのである。
以前、興味本位で『エンディングノート』のようなものを書いてみたことがある。
読んでいただければわかるがそれはただの情報であって生きることに全力の今、何か自分の死について記することは思いつかなかった。
ただ、娘への感謝の言葉だけは書けた。
しかしそれも死がもう少し現実的じゃないと本当に書きたいことは書けてない。
きっと私はギリギリまで生きるために走り、バタッと倒れたところが死地であり寿命であり自分の死に様なのだろう。
誰かに迷惑をかけるのは嫌だ。
しかし死に方も死ぬ時期もわからずして、人に迷惑かけずに死ぬために生きるというのもおかしな話だ。
日頃からミニマルな生活を目指してはいても、楽しい人生を送るために必要なものを早々と整理するなどできない。
それこそ冬物を早めにしまいこんだら春先に雪が降るなんてしょっちゅうだ。
今身の回りにある私を居心地良くしてくれる物や一見ムダに見える物たちが、私が楽しく生きるためには必要な物なのである。
娘にはそのひとつひとつを手にとって整理してほしい。
そして私がどのように生きたかを知ってくれたらいい。
それを迷惑というのならもうすでに親子は終わっている。
人生にやり残したこと
『最高の人生の見つけ方』という映画があった。
余命宣告された主人公が、やり残したことをぜんぶやって死ぬという映画だ。
要するに人生でやり残したことは何もないと言って死にたいのだろう。
それだと気持ちよく死ねるのだろうか。
私はもうやりたいことはほどほどでいいと思っている。
たしかに機会があればもう一度海外にも行きたいし、国内だって行ってない街の方が多い。
できればやれるだけやってみようとは思うだろうが、しかし行きたい外国なんて山ほどあるし日本の知らない街も数えきれない。
食べてないラーメン屋の方が圧倒的に多く、会ったことがない人、見てない映画などなど、あげればキリがないほどあるのだ。
ちょっとやそっと長生きしたところで、でかい地球が相手ではやりたいことをやりつくすというのは無理である。
だから私の経験値は行けるところまで。
HPがなくなったらそれで終わりだ。
ゲームオーバー。
老後のおひとりさまごはん
なぜ毎日料理の写真をアップしてるのか?
食べることって生きることに一番近い行為だと思うからだろうか。
美味しい料理を食べていると元気しか出てこない。
昨日の朝食はW朝定食。
塩鮭にハムエッグという朝の主役級が2つも並ぶとはなんと贅沢なんだろう。
賞味期限を気にするとこんなことになる。
このブログを始めた頃は目玉焼きすらまともに焼けなかったのに・・・
今はどうだ。
オスカーがとれるくらいに上達した。
夜は豚バラとキャベツのオイスター炒め、ピーマンとちくわのきんぴら、ささみサラダ。
酒はビール2本に焼酎1杯、ジンリッキー1杯、シングルモルトを1杯。
昔ならこれくらいの酒なら休肝日と呼んでいた。
何自慢?
『終活』って死ぬ準備と考えずに、死ぬ前に楽しむ活動ということにすればいい。
どうせたいした財産もないんだから、財産目録なんて必要ないし子供もひとりしかいない。
美味しい物を食べて好きな酒を飲んで、気になる映画を見ながらゆいまると一緒に寝る。
これこそが私の終活だ。
コメントありがとうございます! いつもコメント楽しみに読んでいます。 しばらくお返事ができませんがコメント頂けたら嬉しいです!
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