薄れゆく記憶
記憶力は年齢とは関係がないという説があるが、その説にみなさんは賛成だろうか?
私は反対だ。
どう考えても年齢とともに記憶力は落ちていると思う。
忘れることは老人の特技ではないかと感じることさえある。
都合の悪いことはすっかり忘れるし、たまには忘れたフリもできるようになった。
特技もだいぶ磨かれて上達しているようだ。
記憶を司る海馬は、必要じゃない記憶と判断すると忘れることにしているらしい。
まあ、何もかも覚えていてはいつか脳もパンクするだろうから、それはそうだろうと思う。
実は最近、3年前まで勤務していた会社の社長の名前がどうしても思い出せないことがあった。
あんなに一緒に仕事をしてきたのに、顔は思い浮かぶが名前が出てこない。
もうちょっとで出そうなのだが出ないのだ。
よほど海馬が必要ないと思っているのだろう。
残念な社長である。
あと『忘れる』とは微妙に違うが『覚えられない』というのもある。
忘れるというのは一時期は重要な情報として覚えていたことが、何かのきっかけで思い出せなくなること。
しかし覚えられないというのは忘れる以前に記憶すらされないから困る。
仕事で毎月月末になると外注先へ振り込みをしなければならない。
ところが、パソコンのインターネットバンキングに入力するのに、メモを見ながらでも4桁以上の番号の羅列が覚えられなくなってしまった。
たった8桁の口座番号を2回に分けないと入力できないのだ。
こんなことは若い頃はなかった。
これでも記憶と年齢は関係ないと言い張る!?
そして最近気づいたことがある。
嫁が亡くなる前後の記憶がだんだん曖昧になっている気がする。
特にお葬式のことやその後どうやって生活していたのかなど・・・
人生で一番辛い記憶だ。
これも老人特有の『忘れる』という特技のせいなのか。
もしそうであれば、その特技のおかげで心はずいぶんと楽になっている。
あんなに泣いた葬式の日の記憶でさえ、今思い返すとなんだか嫁が天国へと旅立ったいい日だったようにも思える。
不思議だ。
人は辛い記憶を忘れるだけでなく、さらにそれをいい記憶へと上書きしてくれているのかもしれない。
こうやって人間は生きながらえるために、記憶の取捨選択を脳が行い、あるいは上書きできるように進化したのだろう。
一方、たくさんの楽しい思い出はもう一生分もらったから、私の人生にこれ以上の思い出は必要ない。
歳をとって記憶が曖昧になってきても、この楽しかった思い出だけは絶対に忘れない。
老後のおひとりさまごはん
昨日の朝食は覚えている。
海老のサラダにボルシチ、かぼちゃサラダにキウイ、ロッピーチーズ。
朝から野菜たっぷりだ!
それにしてもキウイが酸っぱすぎて限界を超えている。
ランチは私の好きな世田谷の百麺の冷凍をもらったので、久しぶりにランチらしいランチをいただいた。
冷凍だからお店の味そのものだ。
ほうれん草もチャーシューも海苔に替玉までセットされている。
ああ、コレステロールがぁ・・・
晩ごはんはワンプレートごはん、バジルソースパスタ、きゅうりの漬物。
酸っぱいキウイはポテサラにいれてみた。
ポテサラの酸味に溶け込んでうまい!
あと手作りしたのは海老ガーリック、きゅうりの漬物、バジルソースパスタのみ。
どこかにしまわれてしまった記憶も、何かのスイッチで急に記憶がよみがえることがある。
私が一度催眠術にかけられたときにそれを経験した。
まったく普段は思い出すことがなかった幼少期の記憶が、催眠術によって洪水のように溢れ出てきたのだ。
それらの記憶はほとんど思い出したくないようなものばかり。
だから自分で脳のずっと奥の方にしまい込んで鍵をかけていたのだろう。
しかし催眠術はその鍵をいとも簡単に開けてしまった。
人が一度経験したことは、完全に忘れ去ることはできないのだなと思った。
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