原爆投下と終戦
8月は毎年、過去のこの2つの出来事がクローズアップされる月だ。
私は60歳を過ぎてはいるが戦争を経験もしていないしもちろんアメリカと戦ったこともない。
アメリカが戦う相手というのもまったく持って想像もつかない。
アメリカは私に音楽と映画の素晴らしさを教えてくれた国であって、いがみ合う国になろうはずがないというのが正直な気持ち。
しかし現実は、広島と長崎に原子爆弾を投下するという非人道的なことをやってのけた事実がある。
私が育ったのは九州にある天草という島国で目と鼻の先に長崎県があった。
訳あって両親と暮らしたことがない私は、物心ついた時からじいちゃんとばあちゃんとの3人暮らしだった。
その二人から原爆が投下された日のことや、戦争のことなどいろいろと話を聞いたのだろうが、今となってはどんな内容だったかはよく覚えていない。
覚えているのは戦時中はとにかく食べ物がなかったとばあちゃんが話していたこと。
だから戦争が終わってもばあちゃんはいろんな保存食を作っていた。
きっといつまた戦争になってもいいようにと考えてのことだったのだろう。
しかしその頃にはもうインスタントラーメンや冷凍食品が販売されていたので、ばあちゃんもそんなに頑張らなくてもよかったんだと思う。
毎年たくさん作られるお漬物や梅干しなどは、戦争用ではなくほとんどじいちゃんがごはんの時に食べていた。
よくあんな大量の梅干しが食えたもんだと、今想像しただけでも口が酸っぱくなる。
じいちゃんはばあちゃんの料理が『美味しい、美味しい』と言って食べていたが、ばあちゃんはそれが嬉しくてまた大量の保存食を作る。
でもある日、ばあちゃんは死んだ。
じいちゃんはばあちゃんが作っておいてくれた漬物や梅干しを少しづつ食べていたが、それもすぐになくなってしまった。
土間には空っぽの梅干しのカメがゴロリと転がったまま放置された。
ばあちゃんがが死んでからじいちゃんはひとまわり小さくなってしまった。
じいちゃんもまた、空っぽのカメのように空っぽになってしまった。
戦後75年
戦争が終わって75年も経つというのにいつまで戦後というのだろう。
私たちが戦後という言葉を口に出すことはないが、ニュースのアナウンサーだけがこの『戦後』という言葉を使い、戦争を忘れてはならないということを毎年繰り返す。
しかし気づくと私はばあちゃんが亡くなった歳にずいぶん近づいた。
ばあちゃんが亡くなったあとのじいちゃんは哀れなほど年老いた。
男がひとり残るとこんな風になってしまうのか・・・
私もまた、じいちゃんと同じように嫁を先に亡くし天草から遠く離れた東京でひとり生きている。
今あの頃のじいちゃんの寂しさが痛いようにわかる。
その後、じいちゃんもすぐにばあちゃんの後を追うようにして亡くなった。
嫁の生前には毎日二人で晩酌をした。
私の目の前には必ず嫁のグラスがあり嫁のグラスが空くと私がビールをつぐ。
また私のグラスが空くと今度は嫁がビールをつぐ。
毎日当たり前に繰り返される光景のはずだった。
でも今はビールをつぐ相手はいない。
ばあちゃんの空っぽの梅干しのカメのように嫁のグラスも空っぽのままだ。
4年経とうが75年経とうがその侘しさはきっと変わらない。
戦後75年とはそういうことだろう。
私たちはまだ戦後に生きている。
追記
原爆が落とされた日もきっとこんな暑い夏の日だったんだろう。
原爆の犠牲になって亡くなられた大勢の方のご冥福をお祈りする。
75年後の今も戦後は続いているが今の日本はすっかり平和だ。
でも、平和でいい。
永遠に戦後であることが幸せだ。
コメントありがとうございます! いつもコメント楽しみに読んでいます。 しばらくお返事ができませんがコメント頂けたら嬉しいです!
[…] ゴーヤが残ってたので、ゴーヤチャンプルーもついでに作る。 […]