自分らしい生き方
はたして自分は自分らしく生きてきたのだろうか。
64年も生きてきて、あらためてこれまでの人生を振り返って考えてみる。
その前に自分らしく生きるとはどういうことだろうか。
『自分らしく生きるとは自分の気持ちに正直に、自分の生きたいように生きること』
そんな解釈で間違ってはないと思うが・・・
ではそのように自分が生きてこれたかというと、まあ概ねそんな人生だったと思う。
やりたいことをやって嫁を困らせたこともあったし、そんなわがままに嫁もついてきてくれた。
嫁と出会ったのは九州の熊本である。
それから福岡、京都、東京へと引っ越し、嫁はこの東京の地で最後を迎えた。
いろいろと文句も言われたが、うちの家族は新しいことに挑戦するのが好きな家族だった。
だから東京まで道連れにしてしまったが、この東京で嫁は死に娘はここで結婚した。
しかし私はひとりになった今が、一番自分らしく生きているように思う。
自由だからというわけでもなく、ひとりになっても家事をちゃんとこなし、料理をし、丁寧な生活を心がける。
嫁が生きていたころとほぼ変わらない生活をひとりでやれているのが、自分にとっては満足だし自分らしいと思える。
意外に真面目なんだな〜と最近気づいた。
では死ぬ時も自分らしく死にたいと思うが、これはなかなか自分で選択できるものではないだろう。
自分らしく死ぬとはどういうことなんだろう。
畳の上で死にたいとかよく言うが、うちには畳の部屋はない。
誰かに看取られて死ねればそれが一番いいのだろうが、ひとり暮らしだとそううまくはいかない気もする。
せめて自然死で死ねればそれが一番なのかもしれない。
自然死とは老衰死のことだ。
老衰死が死因の3位になった!
厚生労働省が死因別の死亡率を発表している。
それによると2018年以降は、脳疾患や肺炎などの死因を抜いて『老衰』が3位となったそうだ。
死因の1位はもちろんガンだが、そのガンもこの5年ほどは増加が止まっている。
死因の2位は心疾患であるが、この10年ほどはほぼ横ばいだというからいずれ『老衰』という死に方がトップになる日が来るのかもしれない。
ではなぜその老衰が死因の上位に伸びてきたかと言うと、他の病気で死ぬ人が減ったというのもある。
医療の発達によりガンさえも頭打ちになっているのだ。
さらに社会や医療現場が『自然死』というものに理解がすすんだということもあるそうだ。
そもそも医療とは死因を診断できないことは医師として敗北だという考え方があった。
老衰とは診断理由がないことなので、それが長い時間をかけて医療現場に受け入れられるようになったのだろう。
老衰で死ぬということは体の細胞が徐々に死んでいき、そのうち手足も動かなくなり痛みも感じず死ぬことだ。
まるで電池が切れたおもちゃのような死に方だ。
死ぬ話ばかりだが、年寄りには身近な話なので若い方にも参考に聞いてもらいたい。
私もひとりで静かに死にたいとは言ってはいるが、生前の嫁からはちょっと熱が出るとあなたが一番うるさいと言われ続けてきた。
体温計は3分ごとに測るし、ちょっと血が出れば大袈裟に包帯を巻く。
前の血液検査の結果をもらってもないのに、もう次の血液検査をしている。
そして検査結果がC判定だったら、まるでもう死んだかのような落ち込みぶり。
などと嫁には散々な言われ方をしてきた。
う〜む、なんだか意に反して死ぬ時に大騒ぎをしそうな気がする。
そんなみっともない死に方はやはり嫌だ。
できれば電池が切れるように穏やかに死にたいものである。
老後のおひとりさまごはん
昨日の朝食は野菜スープ。
実はこの量を2杯おかわりした。
冬の朝食はこれでいい。
ランチはわんぱくサンド。
タンドリーチキン味のサラダチキンが売ってたのでサンドにしてみた。
さすがに食べ応えがある。
夜は昆布サバの塩焼きワンプレート。
夜もお野菜たっぷりだ。
我ながらバランスのとれた食事だと思う。
こんな健康そうなごはんを食べていて、死ぬ話ばかりしているのがおかしい。
ただ誰かも言っていたが、死ぬときにはもう自分の死に様を客観視できないから、死について考えるのは、死とはまったくかけ離れた健康体のときしかないと。
歳をとると死の恐怖も和らぎ、ちゃんと向き合えるようになるから不思議だ。
だから死について考えるのは今なのだろう。
大騒ぎして死なないように日頃から心がけておくことにする。
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