平凡という名の非凡
なぜ私は偉大な経営者にもエンターテイナーにも科学者にも小説家にもならなかったのだろう?
まあ人生の目標として目指さなかったからなれなかったということだろう。
しかしそもそも目指さないということは、こう言った非凡な才能を持ち合わせていなかったというのもあるだろうが、非凡を好まなかったという方が正解のような気がする。
では自分の人生を振り返ってみて平凡な人生だったかというとどうだろう。
とても平凡とは言えなかったと思う。
実は、平凡な人生を生きるということはたいへん難しいことではないのか?
特に今の日本では、平凡に生きるということはかなり難易度が高いように思える。
平凡な家庭のイメージはともし聞かれたとしたら、真っ先に思い浮かべるのは国民的アニメ『サザエさん』の家庭だ。
お魚くわえた野良猫を追いかけたり、財布を忘れて買い物に出かけたりが歌になるくらいだから、これ以上平凡な家庭象はないだろう。
サザエ家では野良猫を追いかけたり財布を忘れることがきっと人生最大の波風。
事件なのだ。
だから歌にまでなった。
サザエ家がもし貧困家庭で、かつおとわかめの食事は毎日NPOがやっている子供食堂で食事をしているというのでは、日曜の夜のアニメにはきっとならなかったはず。
一家団欒の場で見るアニメにしてはヘビーすぎる。
マスオさんは失業中でハローワーク通い。
波平さんは認知症でいつも近所を徘徊、フネさんは家計を助けるためにいまだビルの清掃の仕事を続けている。
御年75歳。
年金は雀の涙だ。
ちょっと大袈裟に書いたなと言われるかもしれないが、じつは今の日本では6人にひとりの子供が貧困なのである。
現実はもっと過酷で悲惨かもしれないのだ。
平凡な人生とはいったいどんな人生なのだろう。
一流じゃなくても大学を出て上場会社に就職して結婚。
郊外に一戸建てでも買って奥様と2人の子供と仲良く暮らす。
車庫にはハイブリッドカー。
週末はご主人はゴルフに出かけ奥様は家でパンを焼く。
子供はスイミング教室とバレエとダンスを習い、日曜日に家族が揃うとお弁当を作ってみんなでドライブ。
車の窓からはゴールデンレトリバーが顔を出して嬉しそうだ。
風で犬のベロがパタパタなびく。
いつか子供達も結婚し孫も生まれた。
可愛い孫に囲まれながら余生を送る。
そして『いい人生だった』とつぶやいて天に召される。
私が想像する平凡な人生とはこんな感じだ。
どうだろう。
今の日本でどれくらいの人がこんな生活を送っている?
『老子』も平凡に生きることは難しいと言っている。
それは人の欲が道理を歪めてしまうからだ。
器に水をいっぱいに入れようとするとこぼれてしまう。
こぼしたくなければ最初からいっぱいにしないことだと老子は教えている。
足るを知る。
そういうことなのだろう。
先日もブログで書いたが、今の子供たちが将来なりたい職業の1位は会社員だ。
昔で言うと会社員とは平凡な職業の代表選手のようなものだった。
しかし今の子供たちは、その平凡に生きることがどれほど難しいことなのか、大人の背中を見て知っているのではだないだろうか。
夢など見ている暇はない。
目の前にある現実はとても厳しいのだ。
今の日本では平凡というのはもはや非凡なことなのかもしれない。
家庭内でDVにも合わず、捨てられもせず、普通に食事が与えられ、学校に行けることは、子供にとってはたいへん恵まれたことなのだろう。
話は変わるが、日本の宝くじの売り上げがどんどん落ちているそうだ。
日本人はもう夢も買わなくなった。
最後に・・・
日本も格差社会と言われて久しい。
昔、『一億総中流』と言われた時代があった。
その頃に比べると圧倒的に自分は中流だと言い切れる人は少なくなったと思う。
要するに平凡な人生を歩いている方たちだ。
平凡な中流家庭は消滅し富裕層はさらに超富裕層へ。
低所得層はさらに貧困層へと移行しそして生活困窮者となる。
現代に生きる日本人の夢は富裕層になることではなく、平凡に生きることなのかも知れない。
平均的で中流で平凡に生きることは日本人の夢となり目標となった。
※この記事は過去に書いたものをリライトして再掲載したものです。
なので、過去のコメントがそのままくっついてますがご了承くださいね。
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