昔の運動会
今日から雨が続くとニュースで言ってるので、昨日はたまった洗濯物を洗濯した。
そして洗濯し終わった洗濯物をベランダで干していると、近所の保育園から運動会の練習の声が聞こえた。
先生の声がスピーカーを通して園児たちに何か指示をしている。
私が秋の気配を感じるのはスーパーに並ぶ松茸でも秋刀魚でもない。
この秋の運動会のスピーカーの音と運動会でしか聞かないあの音楽だ。
題名は知らないが、かけっこなどの競争のときに必ず流れるあの音楽。
ただのノスタルジーだが、あの音楽を聞くと『ああ、秋なんだな〜』と思う。
私が過ごした田舎の島は、小学校の運動会というとそれは町をあげての盛大な催し物だった。
家族総出で前日の夜から場所取りをし、親戚からご近所の人から赤の他人まで呼んで、運動会と言う名の酒盛りが始まるのだ。
学校で酒を飲むなど今の時代なら大ひんしゅくをかうだろう。
もしかすると逮捕されるかもしれない。
酔っぱらった親父がリレーなどに出て、派手にすっ転んで大怪我をするなんてしょっちゅうだった。
それがあの当時は秋の風物詩でもあったのだ。
いい時代だ。
しかし私は、小学校と中学校の時の運動会にはあまりいい思い出がない。
まだ未熟だった私の心は他人の家族を羨むことしかできなかった。
私は理由があって両親と暮らしたことがない。
前にも少し書いたが、高校を卒業するまでは祖父と祖母との3人暮らしだった。
学校の行事ごとで、PTAや運動会など親が参加するイベントには祖父母は来なかった。
いや来なかったのではなく私が案内を渡さなかったのだ。
PTAなどで教室に入ってくる親はどの親も若くてきれいな服を着ていた。
ただそれだけの理由だ。
しかし狭い田舎の島だから、祖父母はいつ何があるかは当然知っていたはずだ。
それでも知らないふりをして来なかったのは、きっと私が案内を渡さないから来てほしくないのだろうと察し、2人は孫へ配慮をしてくれたのだと思う。
今思えばなんと可哀想なことをしたのかと心から悔やまれる。
運動会の日は学校へ行くのが憂鬱だった。
小学校への通学路は田んぼの中を歩いていく。
金色に実った稲穂が風に揺れ『今日は頑張れよ』と手を振ってくれているようだった。
しかし私の心も稲穂のように揺れた。
田舎の島の人たちの情は厚い。
島の隅々のことまで全員が知っている。
しかしときにはそれは残酷で、みんなと少しでも違えばそれは異質なものとして好奇の目に晒された。
いや、もしかするとそう思ってたのは自分だけかもしれない。
今になって思えば・・・
午前の競技が終わると、生徒たちは家族が待つ場所へと移動し大勢の応援団と一緒にお弁当を食べる。
みな重箱にきれいに盛り付けられたごちそうばかりだ。
クラスで仲がよかった友達もこのときはみな家族と一緒に昼食をとる。
私はというと、普通のアルミの弁当箱ひとつを持って体育館の裏でひとりで食べた。
弁当は祖母が作ってくれたものだ。
祖母は小学校の運動会があるのは知っているから、何も言わずに弁当を作ってくれていた。
きっと祖父母は私が走る姿を見たかったに違いない。
なぜ呼ばなかったのか。
なぜ呼べなかったのか。
近所の保育園から1日中流れてくる運動会のあの音楽。
あの音楽が祖父母に詫びろと1日中私を苦しめる。
高校生
小学校・中学校の運動会はいい思い出がないと書いたが、これが高校になると一変する。
高校では運動会ではなく体育祭という名前に代わり、私は応援団にはいって応援席に巨大な絵を描いたり大声をあげてパフォーマンスをしたりと活躍した。
相変わらず弁当は体育館の裏でひとりで食べたが、高校になると体育館の裏でひとりで弁当を食べてるやつが他にもいた。
そういうやつが友達になり、バンドを組んだり文化祭を企画したりといろいろと面白いことを一緒にやった。
私が通った高校は、島中の中学校から面白いやつがたくさん集まってきていたのだ。
高校生活も終わる頃、保護者による最後の授業参観というのがあった。
卒業後の進路相談なども一緒にやる日だ。
その時、私は初めて祖母に案内を渡した。
祖母はしわくちゃな顔をさらにしわくちゃにして喜んだ。
祖母は授業参観の当日、一番いい着物を着て何度も私にこれでいい?と聞いた。
きっと私が恥ずかしくないようにと、気を遣ったのだろう。
だが、もうそのころの私はそんなことはどうでもよかった。
教室にはいってきた祖母は、保護者たちのなかで一番小さかった。
授業中後ろを振り返って保護者の中から祖母を見つけた時、祖母は泣いていた。
祖母はしわくちゃな顔をよけいにしわくちゃにして泣いていた。
※この記事は過去に書いたものをリライトして再掲載したものです。
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